「失礼いたしました。王女殿下」
そう言ってエミル・グレーアムがリザレリスを降ろした場所は、城の屋上だった。あまりに速すぎて、どうやってここまで来たのかリザレリスにはわからなかった。
「い、今のはなんだったんだよ。スゲー動きだったぞ?」
「私の特技のひとつです」
「特技?」
「ディリアス様からご説明はございませんでしたか?」
「......あっ、ひょっとして魔法とか?」
「はい」
「へー、そうだったのか」
リザレリスはこの辺のことをあまり深く考えていない。おそらく前世の人格のせいだろう。
「驚かせてしまいまして申し訳ございません」
エミルは深く頭を下げた。
「もういいよ。てゆーか、こんな所に連れてきてなんのつもりだよ。意味わかんねーよ」
さっそくリザレリスが文句をつける。エミルは申し訳なさそうにはにかんで返してから、手すりに寄っていくと、城外を指さして示した。
「王女殿下。夜の街です」
促されるままリザレリスはエミルの隣にいき、手すりの上に肘をのせて街を眺めた。
「ふーん」
街の灯りが点々と光っている。前世で見たことのある街の夜景に比べると、なんだか物寂しく見える。だが、それはやはり街だった。
「王女殿下。どうですか?」
エミルはリザレリスへ微笑みかけた。リザレリスはふんと鼻を鳴らしてから、きびすを返して手すりへ寄りかかる。
「べつに」
「少しは心が落ち着かれましたか?」
その質問にリザレリスは答えず、ふと夜空を見上げた。
「どこの世界でも、同じように月も星も光ってんだな」
「今夜は雲ひとつない満月ですね。星もよく見えます」
「なあ、ええと......エミルだっけ?」
「はい。なんでございましょうか」
「俺...わたし、これからどうすりゃいいのかな」
「と、おっしゃいますと......」
「なーんて、生け贄のおまえに聞いてもしょうがないか」リザレリスはエミルに顔を向けると、かなしそうに笑った。
その瞬間、エミルの胸がドクンと脈打った。
月明かりに照らされた吸血姫(ヴァンパイアプリンセス)の、何とも儚げで美しい顔は、彼の胸を狂おしいまでにもてあそぶ。
やはりこの御方になら、この身に流れる血のすべてを吸い尽くされても構わないーー。
エミルはいても立ってもいられなくなる。
「お、王女殿下」
やにわにエミルは跪いて頭を垂れた。目の前の吸血姫への熱い想いを無理矢理抑えつけるように。
「どうしたんだ?」きょとんとしたリザレリスは、エミルに向かって屈みこむ。
「な、なんでもございません」エミルは頑なにうつむく。
何となく不満を持ったリザレリスは、彼の顎に手をやると、くいっと顔を上げさせた。
「!」
リザレリスは一驚する。美少年の白い頬が桃色に紅潮し、何とも言えない苦悩の表情を浮かべていたから。
「も、申し訳ございません」
エミルは謝罪しながら、細長いまつ毛を揺らして視線を逸らす。
そんな彼を見つめながら、リザレリスは改めて思う。肌も髪も何もかもが綺麗で、眉目秀麗で甘やかなエミルは、美少年という言葉でも足りないぐらいだと。
「......おまえ、マジで綺麗でカワイイ顔してるよな」
「そ、そんな、滅相もございません」
「おまえ、マジでモテるだろ?」
「そ、そんな、私は王女殿下のためだけの生け贄ですので」
「ふーん」
ここでリザレリスに、ふと悪い心が芽生える。夜遊びに明け暮れた、前世の悪い心が。
「お、王女殿下?」
ひたすら狼狽するエミルの目に、リザレリスの妖しい笑みが映った。
「おまえさぁ。俺...わたしに惚れてんの?」
「リザさま。おはようございます」起きるなり若くて美しい侍女がやさしく声をかけてきた。「おはよう。マデリーン」リザレリスが応えると、マデリーンは満面の笑みを浮かべた。「本日も朝からリザさまはとってもお可愛くていらっしゃいます」「マデリーンのほうこそ朝から美人だな」元遊び人らしくリザレリスも調子良く返した。するとマデリーンの顔がトロけるようにほころぶ。「そ、そんな、リザさまからそのようなお言葉をいただけるなんて」気をよくしたリザレリスは、マデリーンの頬にそっと手を触れる。「こんな綺麗な侍女がいてくれて、俺...わたしは幸せだぜ」「はあ!」マデリーンは膝から崩れ落ちた。「まったく朝から何をやっているんですか」後ろからルイーズが呆れながらやってきた。
【25】夜、皆が帰っていった後。リザレリスが自室に戻っていってから、居間でエミルはルイーズに訊ねた。言うまでもなくマデリーンについてのことだ。確かに彼女は、まるで人が変わったようにリザレリスへ従順になった。しかし彼女がリザレリスを傷つけたことは事実。それなのに侍女として彼女を迎え入れたのはどういうことなのか。「もちろん無条件に受け入れたのではありません。マデリーン・ラッチェンは、私の課した試験に合格したので採用しました」これがルイーズの回答だった。そして彼女はこうも付け加えた。「マデリーン・ラッチェンは、何もかも正直に話してくれましたよ。その上で彼女はリザレリス王女殿下の侍女になりたいと申しました。そんな彼女に対し、私は通常よりも遥かに厳しく試験と審査を行いました。しかし彼女は合格しました。ハッキリ言いましょう。彼女は優秀です。今後、彼女は必ず役立ってくれると私は判断しました」その説明は、エミルを納得させるに余りあるものだった。ルイーズという人間のことをエミルはよく知っている。彼女の課す試験と審査というものが、どれだけ厳しいのかを知っていた。エミルにとって彼女は、真の信頼に足る人物だった。彼は彼女を尊敬もしていた。「ルイーズさんがそう言うなら、そういうことなのでしょう」エミルが納得して見せると、ルイーズは口元を緩めた。
こうしてすっかり楽しい雰囲気となった彼らへ、サプライズが起こったのは夕食の時だった。食卓に着いた彼らのもとへ、ルイーズの指示に従い侍女が料理を運んでくる。最初は誰も気にしなかったが、ふと皆の視線が彼女に貼りついて固まった。ルイーズが満を持してといった具合に、咳払いをひとつする。「彼女は、本日から新しく侍女として入って参りました。マデリーン・ラッチェンです」侍女姿となったマデリーンは、リザレリスたちに顔を向け、挨拶する。「改めまして、本日よりリザレリス王女殿下の侍女としてこちらに勤めさせていただきます、マデリーン・ラッチェンです。どうぞよろしくお願いいたします」部屋に沈黙が訪れる。誰にも理解が追いつかない。皆が口を半開きにする中、フェリックスが吹き出した。「これは参ったな。さすがに僕にも予想外だったよ」笑い声を上げるフェリックスに、マデリーンが体を向ける。「フェリックス様の温情ある措置があったからこそ、今の私があります。本当にありがとうございました」彼女の謝意に対しフェリックスが会釈した時、ようやくリザレリスたちも一斉に声を上げた。「えええー!?」
放課後、肩を落として校舎から出てくるリザリレスを待っていたのは、レイナードとフェリックスだった。このタイミングでこのふたりが待っていたということは、理由はひとつだろう。「リザも聞いていると思うけど」とフェリックスは前置きして、リザレリスの反応を窺ってきた。リザリレスは無言で頷く。それを確認すると、彼は申し訳なさそうな顔を浮かべた。「彼女が自分自身で決めたことだから、これ以上は僕にもどうにもできない」そんなフェリックスに、レイナードは言う。「いや、兄貴は最大限のことをやってくれた。俺なんか最初からなんもできてねえ」レイナードは悔しさに唇を噛んだ。空気が重くなっている彼らを、周囲の生徒たちは不思議そうに眺めていた。いったい王子ふたりが一年生と何を話しているんだろう、という目で。マズイと思ったエミルとクララが視線を交わし合う。「早く参りましょう!」エミルとクララに促され、リザレリスたちは歩き出した。一行が乗り込んだ馬車がリザリレスの屋敷に到着すると、クララが遠慮がちに口をひらく。「ほ、本当に、私までよろしいんですか?」「当たり前じゃん。こんな日だからこそ今日はみんなで楽しみたいんだよ。クララもいてくんなきゃ困る」
人気のない校舎の裏庭までやって来ると、マデリーンが立ち止まり、こちらへ振り向いた。彼女は周囲を見まわしてから、クララへ顔を向ける。「巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」自分への謝罪にびっくりしたクララは、慌てて手を横に振った。「わ、私は、むしろ加害者側で」「違う。貴女も私の被害者よ。それに貴女がいなければ本当に取り返しのつかないことになっていたかもしれない」「そ、そんな、私は」「ごめんなさい。そして、ブラッドヘルム王女様を救ってくれてありがとう」「わ、私は、できることをやっただけです」クララは複雑な胸中で恐縮するが、マデリーンの様子には安堵していた。それからマデリーンは、改まってリザリレスの方へ向く。「ブラッドヘルムさん。いえ、リザレリス王女殿下」「は、はい」やけに畏まった様子にリザリレスはやや戸惑うが、このあとさらに困惑させられる。マデリーンが跪いてきたのだ。「この度は、多大なご迷惑を
【24】シルヴィアンナと取り巻きは、教室で呆気に取られていた。あの日の翌日以降、リザリレスが何も気にしていないからだ。怒るでもなければ怖がるでもなし。文句すら言ってこない。ただ何事もなかったように、教室でも外でも普通に明るく楽しく過ごしている。「どういうことなんでしょう......」取り巻きが言うと、シルヴィアンナはふんと鼻を鳴らす。「それよりもラッチェン先輩の停学処分が気になるわ。あの人、いったい何をやったの?」「さあ。あのあと私たちはそのまま帰ってしまいましたから......」「そういう約束だったからそれは仕方ないわ。ただ、あの人の停学処分の理由がわからないと、何となくわたくしたちも大人しくせざるをえないじゃない」マデリーン・ラッチェン停学については、一年生の間でも噂が広がっていた。何せマデリーンは第二王子の恋人だった女。その彼女が停学処分となったのだから、何かと勘ぐられ、囁かれてしまうのは仕方がないことだろう。ただし噂はどれも憶測レベルで、信憑性に欠けるものだった。 「し、シルヴィア様の、おっしゃるとおりです」おずおずと取り巻きは答えた。そうとしか答えようがなかった。シルヴィアンナは苛立ちを滲ませる。